ニッポン人、Bossa Novaに出会う。 - ボサノバ来襲編 -
さて、日本に初めて本格的なボサノバを持ち込んだのは、サックス・プレイヤーの渡辺貞夫だと思われます。彼は1962年にアメリカ・ボストンのバークリー音楽学校へと留学します。
1962年!
アメリカのジャズ界に、スタン・ゲッツらの手によってボサノバが持ち込まれ、暮れにはニューヨークでブラジル音楽コンサートが行われた、まさにその年です。
で、山下洋輔が『アントニオ・カルロス・ジョビン―ボサノヴァを創った男』という本(とても良い本です)に寄せた文章によると、ナベサダはこの時期、アメリカのジャズマン、ゲーリー・マクファーランドたちとツアーを回ったりしていたそうです。
マクファーランドと言えば、スタン・ゲッツと共にアルバム『Big Band Bossa Nova』を発表した人。ナベサダは、この人を通じてボサノバに触れたのかもしれません。
1965年に渡辺貞夫は帰国。
そして1966年からBossa Novaを演奏したアルバムを何枚もリリース。一大ボサノバムーブメントを巻き起こす事になります。
そうなると、何事にも貪欲な日本の歌謡界。
1967年に、その渡辺貞夫をコンポーザーに迎えて、本格的なボサノバ歌謡が誕生するのです。
ユキとヒデの「ヒデ」の方は、この後すぐパートナーを変えて「ヒデとロザンナ」として活動します。ヒデとロザンナは、日本屈指のボサノバ(あるいはボサノバ調)の名曲をいくつも残す事になります。
彼らのファーストアルバム『イタリーの休日』(1969)には、『愛のひととき』『真夜中のボサノバ』『サルデニヤのカモメ』『ベニスの夜』など、ボサノバナンバーが並んでいます。
1968年には、フォークシンガーからのボサノバへのアプローチ。森山良子とズー・ニー・ヴーの共作『雨あがりのサンバ』がリリース。パヤパヤ歌ってますが、おそらくアストラッド・ジルベルトの影響が大なのかな、と。
ちょっとだけ後になりますが、1970年、よしだたくろうのアルバム『青春の詩』に収められた『雪』という曲も、ボサノバのフレーバーがほんのりと漂ってきます。
そしてこの時期、絶対に外せないアーティストが加山雄三。
加山雄三は1968年、映画・若大将シリーズの第11作『リオの若大将』に主演。その劇中歌などを収めたアルバム『君のために』を発表します。これに収められた楽曲のうちいくつかは、本当に素敵なボサノバ。ボサノバ「調」なんてことは言わせない。ボサノバを完全に自分のものにしてしまっています。
たぶん、映画『リオの若大将』にしても、加山雄三が「オレ、ボサノバやりたいから舞台をリオにしようぜ」なんてことで決まった企画なのではないだろうか。まずボサノバありき。そんな気がします。
『ロンリー・ナイト・カミング』『かわいい君』『リオの夕暮』『暗い波』など。特に『暗い波』は出色の出来。あまりの出来の良さに本職のボサノバアーティストのカバーなんじゃないかと疑ってみたりしたのですが、作曲は全て弾厚作、つまり加山雄三本人。
恐るべし、加山雄三。
この時代(1960年代末)、ほかにもこんなボサノバ歌謡がヒットしました。
br>さて本国・ブラジルでは、この時代辺りでBossa Novaの灯は潰えてしまいます。
しかし日本では、70年代に入ってますます素晴らしいボサノバJ-POPが生まれてゆくのでした。続きはコチラ。