ニッポン人、Bossa Novaに出会う。 - 黎明期編 -
ということで、日本に於けるボサノバの歴史。
ボサノバの母国・ブラジルでは1958年に、初のボサノバ楽曲といわれる『Chega de Saudade』を収録したアルバム『Canção Do Amor Demais』が発表され、ジョアン・ジルベルトが表立った活動を開始。一気に当地の中産階級の若者の心を掴むことになりました。
この新しい音楽が世界的に広がるひとつのきっかけになったのが、1959年の映画『黒いオルフェ』。アントニオ・カルロス・ジョビンが手がけたサウンドトラックがボサノバの古典の雰囲気を伝えます。
これと平行して、アメリカのジャズ・ミュージシャンたちがボサノバを合衆国に持ち帰り始めます。
1962年になると、スタン・ゲッツ / チャーリー・バードの大ヒットアルバム『Jazz Samba』、そしてゲッツとゲーリー・マクファーランドの『Big Band Bossa Nova』が登場。ジョビン作の名曲『Desafinado』や『Chega de Saudade』、『Samba De Uma Nota So』などが大きくフィーチャーされました。
アメリカのジャズメンによるボサノバへのアプローチは、今聴いてみると「何だかちょっと違うよなぁ」という感想を抱いたりもするのですが、とにかくアメリカ音楽界に「Bossa Novaというなんだか新しい音楽がある」という認識が急速に広まったようです。
で、日本。
早くもこの1962年、タイトルに「ボサノバ」という言葉を冠した曲が発売になっています。梓みちよの『ボッサ・ノバでキッス』。彼女は「ボサノバ娘」というキャッチフレーズと共にこの曲でデビュー。多分、これが日本で最初に「ボサノバ」という言葉が入った曲ではないでしょうか。これは当時よくあったアメリカン・ポップスのカバーで、元曲はポール・アンカの『Eso Beso(That Kiss!)』。聴いてみると分かるのですが、全然ボサノバじゃない(笑)。
同じ年、我らが小林旭もこんな曲を出しています。映画『歌う暴れん坊』(タイトル、キてますねぇ)の挿入歌だそうだ。
あぁ、全然ボサノバじゃない。どちらかというと『マツケンサンバ』のノリ。1962年当時の、日本での「ボサノバ」の認識度はこんなものだったんでしょう。「ラテンの新しいリズム」程度の認識。アキラさんに罪はないのだ、多分。
日本の音楽界、新しいものを取り込むスピードは凄いのです。たとえそれが勘違いだったとしても。
さてアメリカではどうなったのか。
アキラでボサ・ノバと同じ年、1962年の11月にニューヨークのカーネギーホールで、伝説のコンサート『ボサノバ・アット・カーネギーホール』が開かれます。ジョアン、ジョビン、セルジオ・メンデス、カルロス・リラ等々、当代きってのブラジル人ミュージシャンが集まったこのライブは大成功。
これから後、アメリカでは主に「ボサノバはジャズのいちジャンル」という感じで、当のブラジルのミュージシャンたちをも巻き込んでブームを巻き起こします。例えばコレ↓。
ポップ・ミュージックのフィールドでは、「Bossa Nova」という言葉がタイトルに入ったこんな曲たちがヒット。
どちらも「Bossa Nova」という音楽をやっているようには聴こえません。
そして1964年、満を持して伝説のアルバム『Getz / Gilberto』発売。ここからシングルカットされた、アストラッド・ジルベルトが英語で歌う『イパネマの娘』が大ヒットします
アストラッドのアルバム『おいしい水』は、その後のボサノバ女性ボーカルの方向性を決定づけた、本当に罪なアルバムです。ヘタウマなけだるい感じ。そしてダバダバ...というコーラス。全ての始まりは、このアルバム。
さてさて、この頃、ボサノバを日本に本格的に持ち込んだひとりのミュージシャンがいました。「世界のナベサダ」渡辺貞夫、その人であります。
やっと本題に来たところで、お時間となってしまいました...。続きはコチラ。